宮本直毅 |
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大阪読売新聞の夕刊のコラム欄「潮音風声」、私の担当は水曜日であるが、去る昭和62年2月25日、つぎの一文が載った。 『今年5月、世界アマチュア囲碁選手権が北京で行われる。ソ連、台湾を含め世界から40か国も参加する競技は他にないかもしれない。現在、世界の囲碁は、中国、日本、台湾と三つのルールで打たれているが、国際交流になると、国をあげて取り組んでいる中国が先行している。 日本では、今年1月から日本棋院と関西棋院が中心となり、ルール規約改定試案委員会(委員長=吉国一郎元内閣法制局長官)を作り、日本ルールの確立へ向け一歩を踏みだした。日本の囲碁は礼に始まり礼に終わるという基本精神から、むしろ理詰めでない所が美徳とされてきたが、世界を相手ではそうはいかない。 それにつけても忘れられないのは、富士通の技術部長(のちに専務)をしていた池田敏雄さんだ。池田さんは日本コンピュータ界の草分けといわれ、コンピュータに初めて碁を打たせた人として有名である。昭和43年、池田さんに「宮本さん、早く世界ルールを作らないと、歴史ある日本碁界が近い将来、世界の頭脳に笑われることになりますよ」と、人の3倍位の大きな声で忠告された。碁盤とベートーベンの音楽に囲まれた川崎市の自宅の仕事部屋は、池田さんの雄大な心と緻密な頭脳そのままの風格があった。 そんな池田さんが、大阪のクラブへ毎週のように通った時期がある。東京でもほとんど行ったことがないから、会社で評判になったが、実はデートの相手は私だった。2人はホステスを遠ざけ、ぼう大な判例数を丸1年がかりで作成した。49年、快男児池田さんは51歳の若さで急逝された。私も死にたいほどのショックであった。 池田さんの国際ルールには、世界が驚嘆するだろう。』 25日の朝、富士通宣伝部から電話が掛かってきた。毎日新聞・富士通共催の「囲碁サロン」の話であったが、池田さんの遺志のような気がして胸がときめいた。池田さんと七年間のお付き合いであったが、万国博でのコンピュータ碁の事や、私が社長をしていた月刊誌「囲碁新潮」のこと等でお会いした回数は誰よりも多く、私の生ある限り強烈に忘れられない人である。 昭和49年名人戦リーグに10年ぶりで復活できる重大な一局、相手は坂田栄男九段であった。私の苦しい難局だったが夜の12時頃になって望みが出てきた。終わり間近、勝負の決まる劫を争っていた時、秒に追われた私は魔がさしたのか、何と本体と関係のない隣の半劫を取ったのである。さすがに坂田さんもすぐには手を下さず、「悪いね」と言ってとどめを刺された。夢中で打っていた私は池田さんが少し離れて見ておられたのに気が付かなかった。若手棋士達が私の勝ちだと言って帰っていったので池田さんは勝ちを信じて見守っていてくれたのである。午前1時をはるかにまわっている帰りのエレベータの中で、私を抱くようにして、「宮本さん惜しかったね」と涙を浮かべて残念がって下さった。 ああ、諸行無常なるかな。それが最後の別れとなった。間もなく囲碁訪中団団長で中国を訪問した日、池田さんは亡くなった。夢かと思った。「宮本さん今から飛行機で大阪へ行きますよ。」池田さんの大きな声が今でもはっきり聞こえてくる。(昭和62年4月) |